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本サイトで紹介する本に関する理解度チェック問題になります。
問題を解きながら、本の概要を理解できるように、
問題以上に解説に力を入れておりますので、是非活用ください。
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Question 1 of 5
1. 質問
『竜馬がゆく』の著者を選んでください。
正解
司馬遼太郎
1923年大阪市生まれ。大阪外国語学校蒙古語部卒。「ペルシャの幻術師」で講談倶楽部賞、『梟の城』で直木賞を受賞。『竜馬がゆく』『国盗り物語』『坂 の上の雲』『空海の風景』『翔ぶが如く』など構想の雄大さ、自在で明晰な視座による作品を多数発表。
間違った
司馬遼太郎
1923年大阪市生まれ。大阪外国語学校蒙古語部卒。「ペルシャの幻術師」で講談倶楽部賞、『梟の城』で直木賞を受賞。『竜馬がゆく』『国盗り物語』『坂 の上の雲』『空海の風景』『翔ぶが如く』など構想の雄大さ、自在で明晰な視座による作品を多数発表。
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Question 2 of 5
2. 質問
『竜馬がゆく」は誰が主人公の歴史小説か?正しいものを選んでください。
正解
『竜馬がゆく』という作品はすさまじい反響を呼び、「坂本龍馬」という人物の評価さえも左右することになります。「少しとぼけたところがありながらも快活で物事の本質を見極め、大局観を有した土佐弁の剣士」という龍馬像は、この作品によって社会に定着したという説もあるほどです。こうして龍馬は一躍日本を代表する偉人と考えられるようになったわけですが、残念ながら歴史的な評価が近年、龍馬の「過剰」な功績を見直す方向で変わりつつあります。実際、「坂本龍馬」の名を教科書から削除しようという意見が学会から提言されたほどです。
間違った
『竜馬がゆく』という作品はすさまじい反響を呼び、「坂本龍馬」という人物の評価さえも左右することになります。「少しとぼけたところがありながらも快活で物事の本質を見極め、大局観を有した土佐弁の剣士」という龍馬像は、この作品によって社会に定着したという説もあるほどです。こうして龍馬は一躍日本を代表する偉人と考えられるようになったわけですが、残念ながら歴史的な評価が近年、龍馬の「過剰」な功績を見直す方向で変わりつつあります。実際、「坂本龍馬」の名を教科書から削除しようという意見が学会から提言されたほどです。
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Question 3 of 5
3. 質問
坂本竜馬がうまれた実家の身分として正しいものを選んでください。
正解
坂本家の家祖は明智左馬助光春とされる。明智滅亡後、庶子の太郎五郎が土佐に逃れ、長岡郡才谷村に住んで長曽我部の屯田兵とでもいうべき一領具足で、その後、四代目が高知本町筋三丁目に移って酒造業を創業し、五代・六代と栄え、七代目に稼業を弟に譲って郷士の格を買って武士に戻ったのです。領地は百九十七石。
間違った
坂本家の家祖は明智左馬助光春とされる。明智滅亡後、庶子の太郎五郎が土佐に逃れ、長岡郡才谷村に住んで長曽我部の屯田兵とでもいうべき一領具足で、その後、四代目が高知本町筋三丁目に移って酒造業を創業し、五代・六代と栄え、七代目に稼業を弟に譲って郷士の格を買って武士に戻ったのです。領地は百九十七石。
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Question 4 of 5
4. 質問
一藩勤皇を掲げて坂本龍馬とともに同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成した人物を選んでください。
正解
たけちはんぺいた
文政12年9月27日 – 慶応元年閏5月11日
日本の武士・土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。文久元年(1861年)、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成
「白札」とは身分としては郷士だが、当主は上士に準ずるといったあつかいである。
1849年城下の新町で剣術道場を開く。なお、この道場の門下には中岡慎太郎、岡田以蔵等もおり、後の土佐勤王党の母体となる。安政3年(1856年)、江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となる。江戸では桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作など尊皇攘夷派の長州藩士とも交流する。
1862年には、藩主山内豊範への進言を退けた土佐藩参政で開国・公武合体派の吉田東洋暗殺を指令。暗殺後、東洋派重臣を藩人事刷新のクーデターにより、要職から追放し、新たに要職に就いた守旧派を傀儡として藩政の実権を掌握。藩主山内豊範を奉じて京に進出する。上洛後は藩の他藩応接役として、他藩の志士たちと関わる一方で、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣するための朝廷工作に奔走する。
これらの動きが功を奏し、朝廷が攘夷の朝議を決した際、一橋慶喜がこれをくつがえそうと入京を画策したが、武市は、裏工作により、これを一時妨害することに成功した。京では数々の佐幕派暗殺に関与し、天誅、斬奸と称して、刺客を放ち、政敵を暗殺させた(武市の下で動いた人物では、岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛が有名)。同年秋には朝廷から幕府に対して攘夷催促する勅使の江戸東下に、副使姉小路公知の雑掌となり、柳川左門という変名で江戸に随行した。1863年1月、白札から上士格留守居組に出世。さらに3月には京都留守居加役となる。だが、これは過激な土佐勤王党を懐柔するための、山内容堂の策謀であったとも考えられる。間違った
たけちはんぺいた
文政12年9月27日 – 慶応元年閏5月11日
日本の武士・土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。文久元年(1861年)、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬、吉村寅太郎、中岡慎太郎らの同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成
「白札」とは身分としては郷士だが、当主は上士に準ずるといったあつかいである。
1849年城下の新町で剣術道場を開く。なお、この道場の門下には中岡慎太郎、岡田以蔵等もおり、後の土佐勤王党の母体となる。安政3年(1856年)、江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となる。江戸では桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作など尊皇攘夷派の長州藩士とも交流する。
1862年には、藩主山内豊範への進言を退けた土佐藩参政で開国・公武合体派の吉田東洋暗殺を指令。暗殺後、東洋派重臣を藩人事刷新のクーデターにより、要職から追放し、新たに要職に就いた守旧派を傀儡として藩政の実権を掌握。藩主山内豊範を奉じて京に進出する。上洛後は藩の他藩応接役として、他藩の志士たちと関わる一方で、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使を江戸に派遣するための朝廷工作に奔走する。
これらの動きが功を奏し、朝廷が攘夷の朝議を決した際、一橋慶喜がこれをくつがえそうと入京を画策したが、武市は、裏工作により、これを一時妨害することに成功した。京では数々の佐幕派暗殺に関与し、天誅、斬奸と称して、刺客を放ち、政敵を暗殺させた(武市の下で動いた人物では、岡田以蔵、薩摩藩の田中新兵衛が有名)。同年秋には朝廷から幕府に対して攘夷催促する勅使の江戸東下に、副使姉小路公知の雑掌となり、柳川左門という変名で江戸に随行した。1863年1月、白札から上士格留守居組に出世。さらに3月には京都留守居加役となる。だが、これは過激な土佐勤王党を懐柔するための、山内容堂の策謀であったとも考えられる。 -
Question 5 of 5
5. 質問
近江屋事件で坂本龍馬とともに亡くなった人物を選んでください。
正解
近江屋事件(おうみやじけん)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎、龍馬の従僕であった山田藤吉の3人が京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸において殺害された事件。実行犯については諸説あるが、江戸幕府の組織である京都見廻組によるものという説が有力である
間違った
近江屋事件(おうみやじけん)は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎、龍馬の従僕であった山田藤吉の3人が京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸において殺害された事件。実行犯については諸説あるが、江戸幕府の組織である京都見廻組によるものという説が有力である
『竜馬がゆく』の著者を選んでください。 |
『竜馬がゆく」は誰が主人公の歴史小説か?正しいものを選んでください。 |
坂本竜馬がうまれた実家の身分として正しいものを選んでください。 |
一藩勤皇を掲げて坂本龍馬とともに同士を集めて、江戸にて土佐勤王党を結成した人物を選んでください。 |
近江屋事件で坂本龍馬とともに亡くなった人物を選んでください。 |
著者: 司馬遼太郎
1923年大阪市生まれ。大阪外国語学校蒙古語部卒。「ペルシャの幻術師」で講談倶楽部賞、『梟の城』で直木賞を受賞。『竜馬がゆく』『国盗り物語』『坂 の上の雲』『空海の風景』『翔ぶが如く』など構想の雄大さ、自在で明晰な視座による作品を多数発表。この他『街道をゆく』『風塵抄』『この国のかたち』な どの紀行、エッセイも多数。’96年逝
歴史小説家としてはW・スコット以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、筆名からも直接には司馬遷『史記』列伝の形式を範にした作家でもある。
特徴としては、基本的に登場人物や主人公に対して好意的であり、作者が好意を持つ人物を中心に描く。それによって作者が主人公に対して持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長し、ストーリーの中に読者を巻きこんでゆく手法をとることが多い。また歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突き放した客観的な描写によって乾いたユーモアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。
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