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こころ (新潮文庫) 夏目 漱石

Book Summary
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理解度チェック

本サイトで紹介する本に関する理解度チェック問題になります。


問題を解きながら、本の概要を理解できるように、
問題以上に解説に力を入れておりますので、是非活用ください。

レビュー

ストーリーは、少年が鎌倉の海岸で いつもどこか寂しげな男性に出会う所からスタートします。少年は、その男性のことを「先生」と呼ぶようになります。父親の見舞いで故郷に帰省していた少年は、先生から届いた自殺を思わせる手紙を抱えて東京行きの汽車に乗り込みます。その手紙には、先生の悲しい過去の告白が綴られていた。信頼していた人間に裏切られたことで体験した地獄、そして自分も親友を裏切ってしまったこと。先生は学生時代、下宿の主である未亡人のお嬢さん(後の先生の奥さん)に、ひそかに恋心を抱いました。しかしある日、先生の親友であり同居人のKが先生に対して、「お嬢さんに恋をしている」と告白したのです。先生はそんな純粋無垢なKに対して「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」という一言を浴びせ、裏で未亡人にお嬢さんとの結婚を請い、許諾されるのです。気まずさを覚え、先生はKにこのことを言えないでいました。そして先生より先に未亡人の口から先生とお嬢さんの結婚を知らされたKは自殺をしてしまします。 Kを裏切り、失望させ、自殺へ導いたという自責の念は、最終的に先生本人を死へと誘う。カルマに縛り殺されていく人間の「こころ」を描いた、日本文学史上の金字塔で、芥川龍之介の「人間失格」と並び、日本で最も売れている小説です。

登場人物は下記の4人となります。
(上・中の語り手で、田舎から出てきた学生)
先生 (仕事もせず、妻と2人で暮らしている)
先生の妻 (下の前半では「お嬢さん」と書かれている。名前は静(しず))
K (先生の親友で、故郷も同じ。僧侶の次男)

この4人が時を超えて交わりながら展開される深い悲痛に満ちた小説だったと思います。
「先生とKはどちらがより苦しんだのだろうか?」
親友と恋に裏切られたKももちろん辛かっただろう。けれども何十年も自分を信じられない先生の苦しみの方がより深い地獄を味わったように思えます。それは確かに自分の罪であるのだがその悲しみは想像に難くありません。Kを自殺に追いやったのは先生だが、その先生を死に追いやったのはKの亡霊だったのです。この背景には、本書でも触れられている明治天皇の崩御と乃木大将の殉死が関わっているのだと思います。私は、明治という時代が先生を自殺させたとも考えます。現代社会において、明治に残っていたような尊王攘夷の精神をもった人物は一部の方に限られ大多数をそうでない人がしめるため、この先生の行動はもしかすると現代の人が読んでも到底理解できないのかもしれません。まさに先生は、「明治の精神に殉死」したのです。

本書の要点

●あらすじ

先生と私

私と先生が出会ったのは海水浴場であった。先生は非常に平凡な男性であったが、当時は珍しかった外国人と連れだって、西洋風な水着を着て海水浴を楽しんでいたために、人で溢れかえっている海水浴場でも非常に目立った。海水浴場で毎日思い切って先生に話しかけてはみるものの、先生はというといつも素気のない感じであった。交流を深められたと感じれば、またすぐ軽く突き放されるの繰り返しで、主人公はよく先生に失望させられていた。自分のことを迷惑に思っているのかとも考えたが、どうやら、先生は自分自信のことを交流するに値しない人間であると感じているようである。主人公は、先生の奥さんとも交流を深めていくが、先生は奥さんに対してもそのような態度をとっていた。疑問を抱き、主人公は先生に問い詰めるものの先生の返事はやはり素気のないものであり、主人公は心に小さなわだかまりを抱えて過ごしていくのであった。

両親と私

先生との交流は細々とながら続いてはいたものの、主人公の父親が重い病気にかかったため、主人公はいったん先生から距離をとって実家に赴くことになります。そんな最中、夏の暑い盛りに明治天皇の崩御がありました。

先生の遺書

主人公は先生から長い書簡を受け取ります。「あなたがこの手紙を手に取るころには、私はこの世にはいないでしょう。」文頭にそう記されており、主人公の胸にざわめきが生じた。そこには先生がなぜ自分自身のことを価値のない人間に思うに至ったのかという経緯が記されているのであったです。
 先生は学生時代、友人Kと共にとある裕福な家に下宿をしていた。Kは非常に優秀な男であったが、同時に純粋な男でもあった。もともと先生とKは同郷の知り合いで、親友とも呼べる間柄である。しかし、二人の仲は一人の女性により引き裂かれることになる。下宿先には一人の美しい娘がいたのである。Kは彼女に恋に落ちていくのであった。同時に先生も彼女に恋をしていた。先に腹を割って話したのはKである。「お嬢さんに気があるので応援してくれないか。」先生は親友のKが言うことであるので、表面上は承諾したものの、実際の心境は異なっていた。結果、先生は親友のKを裏切って彼女の恋人の座を射止めることになる。そのことを知ったKは、祝福の言葉を述べるものの、数日後に自ら命を絶ってしまったのであった。彼女はなぜKが死んでしまったのか思い当たらないが、先生にははっきりと動機が分かっていた。自分がKを裏切ってしまったから、Kは死んでしまったのだ。先生は、ずっと苦悩を抱えながらも彼女と結婚して生活を営んでいった。
 そんなところに明治天皇崩御の知らせが入り、明治の象徴がなくなってもなお、生きながらえていくことは時代遅れのように感じ、そのことを妻と話し合ったが、妻はというと、それでは殉死すればいいじゃないですか、といつもの軽い調子で返すのであった。どんどん自殺観念に飲み込まれて行って、明治天皇のあとを追って自死を選ぶものの思いをつづった文章を手にとり、自死の覚悟を固め実行されたのでした。

 

 

本書の目次

   [上] 先生と私
[中] 両親と私
[下] 先生の遺書

著者・出版

著者: 夏目漱石

夏目 漱石は、、本名は夏目金之助。母親が高齢出産だったこと、漱石誕生の翌年に江戸が崩壊し夏目家が没落しつつあったことなどから、漱石は幼少期に数奇な運命をたどる。生後4ヶ月で四谷の古具屋に里子に出され、更に1歳の時に父親の友人であった塩原家に養子に出される。その後も、9歳の時に塩原夫妻が離婚したため正家へ戻るが、実父と養父の対立により夏目家への復籍は21歳まで遅れる。
 漱石は、家庭環境の混乱からか、学生生活も転校を繰り返す。小学校をたびたび変え、12歳の時に東京府第一中学校に入学するが、漢学を志すため2年後中学校を中退、二松学舎へ入学。しかし、2ヶ月で中退。その2年後、大学予備門の受験には英語が必須であったため神田駿河台の英学塾成立学舎へ入り、頭角をあらわしていく。17歳のとき、大学予備門に入学。ここで、のちに漱石に文学的・人間的影響を与えることとなる 正岡子規と出会い、友情を深める。学業にも励みほとんどの教科において主席であった。特に英語はずば抜けて優れていた。そして明治23年23歳のとき、東京帝国大学英文学科へ入学。ここでも漱石は秀才ぶりを発揮し、特待生に選ばれる。当校の教授をしていたJ.M.ディクソンは漱石の才能を見込み、「方丈記」の英訳を依頼した。やがて明治26年(1893)26歳のとき同大学同学科を卒業する。
 漱石は、10代の頃より様々な場所で教師を務める。大学卒業後は、東京高等師範学校の英語嘱託をへて、明治28年松山の愛媛県尋常中学校に英語科教師として赴任し教鞭をふるう。松山は子規の故郷でもあり、ちょうどこのころ静養のため帰郷していた子規と共に俳句に精進する。また、同時期に、貴族院書記官長中根重一の長女 中根鏡子との縁談の話が持ち上がり、彼女と見合いをし婚約する。そして翌年、熊本県の第五高等学校講師として赴任し、結婚する。
 明治33年(1900)33歳のとき、漱石は文部省から英文学研究のため英国留学を命じられ、渡英する。初期の頃は、勤勉に励んでいたが、じきに英文学研究への違和感を感じ始め、神経衰弱に陥る。下宿先を何度も変え、そんな中、 池田菊苗 という化学者と出会った事で新たな刺激を受け、下宿に一人こもりきりで研究に没頭し始める。これを耳にした文部省は、急遽帰国を命じ、明治36年に漱石は帰国した。
帰国後、漱石は 小泉八雲の後任として東京帝国大学英文科講師となる。しかし、彼の分析的な硬い講義は生徒に不評で、「八雲留任運動」が起こるなどしたため、漱石は神経衰弱を再発させてしまう。そのような中、当時子規の遺志を継いで『ホトトギス』を経営していた 高浜虚子は、漱石に小説を書くようにすすめる。そこで漱石は、明治38年38歳のとき 「吾輩は猫である」を執筆し発表する。その後 「倫敦塔」「坊っちゃん」と立て続けに作品を発表し、作家としての地位を向上させていく。
 そしてついに、明治40年(1907)40歳のとき、一切の教職を辞し朝日新聞社へ招聘され入社し、本格的に職業作家としての道を歩み始める。このとき漱石に入社を決意させたのが、朝日新聞で主筆を務めていた 池辺三山である。出世が約束されていた帝国大学教授から一新聞小説家へ、明治のエリート街道からの逸脱は人々に驚きを与え、入社第一作目の「虞美人草」は大きな話題を呼んだ。ちょうどこの頃、漱石は 早稲田南町 に引っ越す。この家は、のちに「漱石山房」 と呼ばれ、毎週木曜日の面会日「木曜会」には、若い文学者たちが集まり、多くの著名な作家が出た。
 漱石はここで、「坑夫」「夢十夜」を書き、続けて前期三部作「三四郎」「それから」「門」を完成させた。だが、明治43年43歳のとき、「門」の執筆中胃潰瘍を患い、療養生活となる。転地療養のため修善寺温泉へ赴くが、そこで大量に吐血し、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが、いわゆる「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この事件時には、多くの仲間や弟子が漱石のもとへ集まった。その後、一旦容態が回復し東京へ戻るが、漱石は何度も胃潰瘍などの病気に苦しまされることとなる。
 明治44年(1911)44歳のとき、文部省から博士号授与の通達があったが、漱石がこれを辞退したため波紋を呼んだ。この博士号辞退事件は、権威主義的な政府に激しい憤りを感じていた漱石の反抗の現れであった。漱石は博士号という名誉より作家であることを選んだのである。
 療養から執筆活動を再開した漱石は、大正元年45歳のとき「彼岸過迄」を著し、続いて「行人」「こころ」の後期三部作を完成させた。大正4年(1915)48歳のときには、自伝的要素の強い「道草」を発表した。しかし、これら作品の執筆期間中にも漱石の病は悪化し、胃潰瘍以外にも、痔や神経衰弱に悩まされ、糖尿病におかされる。そして、大正5年49歳のとき、「明暗」執筆途中に胃潰瘍が再発、内出血を起こし、その短い生涯を閉じたのである。

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