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信念に生きる――ネルソン・マンデラの行動哲学(英治出版)リチャード・ステンゲル

Book Summary
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レビュー

「ネルソン・マンデラ」と聞くと、歴史の教科書に載っていた人物、というイメージが強いかもしれませんが、実は、マンデラさんはアフリカ諸国には大変珍しく、また幸運なことに95歳まで生き続け、その生涯の幕を閉じたのはつい一昨年(2013年)の12月5日のことでした。学生時代には弁護士になるべくひたすら勉学に励んでいましたが、ある日先輩から受けた誘いをきっかけに、1944年(26歳)に南アフリカの自由への闘争に踏み出します。しかしながら、1962年(44歳)に当時の政府より反逆罪で逮捕され、終身刑を言い渡されます。それから釈放に至ったのは1990年、72歳の時であり、実に27年もの歳月が流れます。そして、出所よりわずか3年後には白人の大統領デ・クラーク氏と共にノーベル平和賞を受賞、4年後には初の全人種参加選挙が行われ、南アフリカ初の黒人大統領として就任しました。



ネルソン・マンデラといえば、元南アフリカの大統領でアパルトヘイト(人種隔離政策)廃絶のために闘った戦士だ。実際に国家反逆罪の罪に問われて収監されるまでマンデラは文字通り戦士であり、釈放後は政治家の道を歩むことになったが、信念を貫くという意味ではやはり戦士であり続けた人物だ。ネルソン・マンデラは「人格は厳しい状況の中でこそ計られる」という言葉に体現される人物です。27年間もの間、刑務所に入れられても復讐心を排し、ついにアパルトヘイト撤廃を成し遂げました。本書は、勇気、寛容、人を引きつける、冷静沈着など優れたリーダーにとって何が大切であり、どういったことを乗り越えていかなくてはならないかを教えてくれる素晴らしい著書になっている。

「敵の心を掴んだ、と得意になってはいけない。自分が勝っているときこそ、最大の慈悲心を持って相手に接しなくてはならない。いかなる状況においても、相手を侮辱してはならない。相手の誇りを大切にしなさい。そうすれば、敵はやがてあなたの友となるのだから」

これはマンデラの言葉である。よく考えて欲しい。マンデラは長い間、白人たちによって侮辱され自由を奪われていた人物なのである。 普通なら復讐してやると思うだろう。実際に若いときのマンデラはそのように考えていたのだろう。しかし、27年にも及ぶ収監生活が彼の考えを変えた。それは未熟なものが成熟へと至る過程であったのだろう。ちなみに成熟するとは「若いときにむき出しにしていた感情を胸に内に秘める術を得ること」だとしている。反対に未熟な人間は頭よりも心(感情)で行動する 。

感情を胸の内に秘める術を得たこと以外でも成熟に繋がることはある。

■相手の良い面を見出す
「確かに私は人の良い面を見過ぎているかもしれない。しかし、そのような批判を私は甘んじて受ける。なぜならば、私は、他人の良い面を見ることは有益だと確信しているからだ。相手を誠実で信用できる人物であると考え、その前提で自分も相手に対して誠実に行動するべきだと考えている。なぜなら、人の誠実さというのは、誠実な人間にこそ引き出せるものだからだ。」(『信念に生きる-ネルソン・マンデラの行動哲学-』より引用)

周囲の人への尊敬の念と自分に対して謙虚さからくる言葉である。

■すべての角度からものを見る
マンデラが教えてくれているように、善と悪双方の視点で、いや、それ以上の複数の視点で物事を見る習慣をつければ、私たちが以前には考えもつかなかったような斬新な解決法が見つかるかもしれない。このような思考法を習慣化するためには、大変な努力が必要だ。自分の意見にとらわれないようにする必要があり、反対意見を持つ相手の身になって物事を見ようとする意識が問われる。強い意志、そして、共感力と想像力が求められるのだ。(『信念に生きる-ネルソン・マンデラの行動哲学-』より引用)

相手が考えていることを想像する努力が、まさしく共感力なのだ。

本書のPoint
27年間の牢獄生活
たった畳2畳程のスペースしかない刑務所の独房で、決して希望を失わず、さらには大統領になるまでの能力を磨き上げることのできた27年間もの牢獄生活において、いったいどのような努力があったのでしょうか。「私は刑務所で成熟したのだ」と、マンデラさんは言います。「刑務所を出たとき、マンデラは別人だった」と、その同胞たちも語ります。「成熟している」という言葉の定義を、「一時の感情を抑え、様々な思考を冷静に判断し、ものごとをありのままに見ることができる」ことだとマンデラさんは考えます。20代~40代の若い頃の彼は、とても情熱的で、怒りや感情をあらわにすることで黒人組織を引っ張ってきました。しかし、刑務所に収監されている状況では、ものごとに対する一切の反応を抑え込まなければなりませんでした。荒く残酷な看守のもとで、囚人がコントロールできるものは何もなく、唯一、コントロールすることができたのは、自分自身だけだったといいます。そのような環境が、自分の中の余計なものをそぎ落とし、「自己の鍛練と節制、集中力」を植え付けることとなったのです。狭い独房の中で、毎朝5時に起きて約1時間もの腕立て伏せ、スクワットを欠かさず、自分の体と忍耐を鍛え続けます。理不尽な看守の態度に対し、反撃することも、屈することもしませんでした。一方で、苦しい環境の中で自分に負けてしまう同胞の囚人達の弱さにも、十二分に理解を示しました。妻のウィニーが白人警察からひどい拷問にあったり、息子テンビが事故で死亡した、といったニュースを聞くたびに何度も込み上げる怒りをぐっと鎮め、堪えました。そのかわり、刑務所内の図書館で唯一閲覧が許されたアフリカーナー(当時の南アフリカ白人)に関する本を読み、敵の言語や歴史、文化の深い理解に努めました。未来に希望を失いそうなとき、映画のタイトルにもなった「インビクタス」という詩の最後のフレーズ「I am the master of my fate. I am the captain of my soul.(我が運命の支配者は自分自身である。我が魂の指揮者は自分自身である)」というメッセージを何度も何度も自分の中で繰り返します。それでもものごとが上手くいかない時、刑務所の畑で一生懸命に育てていたトマトがいくつか枯れてしまったのを見て、ものごとには手の施しようがないこともあるのだ、という現実をも受け容れました

「自己マスタリー」の実践:27年間に渡る、創造的緊張の維持
刑務所で身に着けたこれらすべての力が、やがて白人看守との信頼関係を築くことに繋がり、刑務所内の生活環境が少しずつ改善され、刑務所長との対等な対話を実現します。そして、ついには白人の前大統領との交渉機会を得るに至ったのでした。大統領就任後の彼を取材していたジャーナリストは、マンデラさんが人を肯定的に評価するときには、「深い洞察力を備えている」「忍耐強い」「バランスがとれている」という表現を多く用いたといいます。これはきっと、マンデラさん自身が努力をして大事にしていたあり方だったのでしょう。この様に、知識や技術の習得だけではなく心や自身のあり方の鍛錬を続け、27年後に同胞たちをも驚かせるほどの変容を遂げたマンデラさんの努力は、『学習する組織』における「自己マスタリー」の優れたレベルでの実践にあたります。自らの大志を抱き続ける一方で、刑務所という隔離され、手の施しようのない環境下において、自らの置かれた状況の現実をありのままに受け容れることを同時に行っています。感情に流された反応的な行動を抑え、できることに焦点をあてて、自身を磨き続け、白人の看守や刑務所長とも関係性を広げていきました。志と現実の狭間で、27年という長期にわたって創造的緊張を維持したのです。こうした個人の想いや情熱とシステムの現実の受容の狭間に現れる自己変容はあらゆるシステム規模の変容の原点です。そして、ひじょうに個人的であると同時に、エゴのない、全体性に通じた想いは、自らの行動を変えるばかりではなく周囲の人たちをも感化し、影響のうねりを大きく広げていくエンジンとなることを教えてくれます。
72歳で出所後
今回はマンデラが出所後に実行した「共有ビジョン」に関するストーリー です。

新たな南アフリカを作るには、国民と共に新たなビジョンを持つことが大切でした。そこで、マンデラさんが最も慎重になったことは、新体制に対する白人の恐怖心を拭い去り、いかに協力してもらうか、ということでした。それは、刑務所を出所した直後、大統領になる前から何度もメディアの取材を通して訴えています。「白人も同じ南アフリカ人です。わたしたちは、白人に安心して暮らしてほしいし、この国の発展に尽くしてきた白人層の功績をわたしたちが高く評価していることを知ってほしいのです」と。牢獄生活中に、マンデラさんは、看守と触れ合う中でアフリカーナー(南ア白人)について多くのことを学びました。彼らの言語、歴史、文化を学ぶ中で、これから共に国をつくっていく「白人の同胞」が誇りに思っていることは何か、ということを問い続けました。マンデラさんが特に注目したのがラグビーでした。これは、マンデラさんが2つ目に移された刑務所で出会ったヴァン・シタート少佐から学んだことです。少佐は政治犯であっても、他の一般犯罪者と同じように容赦なく扱い、最初はとても対話などできるような状況ではありませんでした。そのような関係性をどうしたら超えられるか、どうしたら近づけるかを一生懸命に探った結果、少佐が唯一、夢中になっているものがあることに気づいたのです。それが、ラグビーだったのです。南アのラグビーチーム「スプリングボクス」は、白人政権時代の国旗を象徴する緑と黄色のユニフォームを身に着けており(故に黒人にとってスプリングボクスはアパルトヘイトの象徴であり、最も憎いものの1つでしたが)、その迫力あるプレーから白人の存在感を象徴する、アイデンティティーでもありました。
 このことを記憶していたネルソン・マンデラさんは、大統領として新政権における体制づくりにおける新憲法制作や、海外からの資金調達等の最優先事項と同じくらい、”ラグビーによる黒人と白人の団結”のために多くの力と時間を割きます。新体制のスポーツ連盟が、全会一致で廃止しかけていたスプリングボクスを「これは白人たちの宝物だ。絶対に残さなくてはいけない。」と呼びかけます。さらには翌年1995年開催のラグビーワールドカップを南アフリカへ招致し、当時最弱と言われていたスプリングボクスの優勝へ向けて、キャプテンを何度も呼び出して感化したり、彼らと同じユニフォームを着て練習会場を訪れたりしました。それは、彼の周りにいた黒人の同胞からは、到底理解をされないものでした。
ある日、マンデラさんの秘書がしびれを切らし、「ラグビーの応援は、政治的打算なのか?」と問うたとき、「いいや、人間的打算だ。」と答えたことは、映画『インビクタス』の注目のシーンでもあります。結果として、最弱といわれていたスプリングボクスは翌年のワールドカップで奇跡の優勝を果たし、会場に緑と黄色のユニフォーム姿で登場したマンデラ大統領へ向けて、ほぼ白人で埋め尽くされていた会場から”マンデラコール”が上がりました。この日は黒人も白人も一緒に、南アフリカが一体となったのです。

皆が大切に想うものに寄り添う社会
マンデラさんが掲げたビジョン「虹の国」とは、まさに、肌の色に関わらず、国民ひとりひとりの「誇り」をとても大切にするものでした。ピーター・センゲ氏のいう「共有ビジョン」とは、構成員のひとりひとりが自身の居場所や役割を認識し、組織のビジョンに自分のビジョンが重なり、我がこととしてコミットメントし責任を負うようなビジョンを指します。マンデラさんは、新しい南アフリカが、決して特定の人を幸せにし、特定の人を不幸にするものではなく、皆が大切に想うものに寄り添う社会となることを心から願い、身をもって示そうと努力したのです。
新体制のメンバーには、旧体制の白人大統領デ・クラークを副大統領に任命しました。政権が代わったことにより政界を去ろうとした白人の優秀な政治家たちを呼び止め、国づくりに協力してくれるよう頼みました。また、政治運営の方針においても、白人が築き上げてきた「素晴らしい功績」を、なるべくそのまま引き継ぐ意向をもって、黒人の政治家を説得したのです。
本書の目次

序章 多面的な人物
第1章 勇敢に見える行動をとれ
第2章 常に冷静沈着であれ
第3章 先陣を切れ
第4章 背後から指揮をとれ
第5章 役になりきれ
第6章 原理原則と戦術を区別せよ
第7章 相手の良い面を見出せ
第8章 己の敵を知れ
第9章 敵から目を離すな
第10章 しかるべきときにしかるべく「ノー」と言え
第11章 長期的な視野を持て
第12章 愛ですべてを包め
第13章 「負けて勝つ」勇気を持て
第14章 すべての角度からものを見よ
第15章 自分だけの畑を耕せ
マンデラからの贈り物

著者・出版

リチャード・ステンゲル


ニューヨーク生まれ。1977年プリンストン大学卒。ローズ奨学生として英国オックスフォード大学で歴史と英語を修める。タイム誌のライター兼編集者となり、文化、政治デスク、タイム・ドット・コム編集長、政治問題主任などを歴任、2006年よりタイム誌編集長。政治コメンテーター、プリンストン大学講師、元民主党大統領候補ビル・ブラッドレーのアドバイザー兼スピーチ・ライター、『ニューヨーカー』『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿など、幅広く活躍している。マンデラとは公私ともに深い付き合いがり、自伝『自由への長い道』を編纂、ドキュメンタリー映画「MANDELA」をプロデュースした。

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