スポンサーリンク

ガンジー自伝 (中公文庫) ガンディー

Book Summary
スポンサーリンク
レビュー

自伝にはガンジーがもっと遠慮なく自慢してもいいだろうことや、われわれが誇りたくなるようなガンジーのことがいっさい触れられていないのである。たとえば、世界中を驚かせ、感動させ、インドの民衆にとっても忘れられない誇りとなった1930年3月の「塩の行進」については、1行も触れられていない。

 のみならず、反英独立運動の再三にわたる歴史的な高揚についても、まったく触れられてはいない。わかりやすくいえば、アカデミー賞をとったリチャード・アッテンボローの映画『ガンジー』で描かれたあのガンジーの、まさにガンジーらしい想像を絶する勇気と異様な忍耐と民衆の共感によるすばらしい高揚は、この自伝では綴られてないわけなのだ。ようするに、ガンジーが自分で政治的な活動だとみなしているすべての活動とその活動に関する感想が、省かれてしまっているのである。

この自伝が伝記のガンジーや映画のガンジーを彷彿させないようになった第1の大きな理由のひとつは、この自伝が1920年の全インド国民会議派のナグブル年次総会の記述で打ち切られていることにある。これでは当然のことながら、その後の反英運動や「塩の行進」や独立のための苦闘は入らない。
 しかし、これはガンジー自身がここで確固たる自覚のもとにあえて打ち切ったためでもあった。書こうとおもえばいくらも書けた。ところがそうしなかった。ガンジー自身がこのあと突入していく政治の季節の叙述を拒否したともいえるわけなのだ。そして、そのように自伝の主旨をも頑固に貫いたところに、やはりただならないガンジーがいる。

しかし、もうひとつ、第2の理由もある。それは、ガンジーが自伝という様式に疑問をもっていたということだ。
 だいたいアジアには自伝を書く習慣がない。自伝というのはヨーロッパ人の奇妙な習慣であり、ヨーロッパにおける個人の強調なのである。自伝を書くアジア人はたいていはヨーロッパの学校教育を受けているか、ヨーロッパでの生活が長かった者ばかりであることが多い。周囲から自伝の執筆を頼まれたとき、ガンジーはこのことについて悩む。
 けれども周囲の希望は熱心だった。誰もがガンジーの生い立ちやイギリスでの日々やインド回帰のことを知りたがっていた。寡黙なガンジーはそういうことを周囲にめったに洩らさない。そうでなくとも、毎週月曜日を「沈黙の日」にして、筆談でしかコミュニケーションをしなかった人なのだ。
 ともかくもガンジーはアジアの伝統を曲げて自伝を書くことにする。そのかわり、この自伝を「真実のための実験」の記録だけにしぼることを決意するのである。それも最初は刑務所に投獄されたときに限ろうとした。これがガンジーの自伝が珍しいものになっている第2の理由にあたっている。

ガンジーの「真実のための実験」とは、ガンジーが「ここ30年間なしとげようと努力し、切望してきたこと」と書いていることだが、それは「自己の完成、神にまみえること、人間解脱に達すること」である。
 このことをガンジーは本書の副題にも掲げた。「真実をわたしの実験の対象として」というものである。ガンジーのこの言葉は、ガンジーにはどうしても掲げるべきモットーであり、告白であり、確信だったようだ。

本書の目次

生まれと両親
学校時代
結婚
友情の非劇
盗みと贖い
父の病と死
宗教をかいまみる
イギリス行きの準備
船中で
ロンドンにて

著者・出版

マハトマ・ガンディー

1869年、グジャラート州ポルパンダルに生まれる。ヒンドゥー教ジャイナ派の教育を受け、英国で修学した後、89年弁護士の資格を得る。93年から1914年まで、南アフリカのナタールで商館訴訟を手掛ける。その間、現地のインド人労働者の受けていた差別虐待に抗議し平等権獲得闘争を指導、非暴力闘争の端緒を開く。帰印後は、労働運動、民族解放独立運動の指導に専念。英国のインド撤退を要求、不服従運動を提唱し、インド独立の父と慕われた。48年、狂信的ヒンドゥー教徒により暗殺された

1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になったが、受賞には至っていない。ガンディーの誕生日にちなみ、インドで毎年10月2日は「ガンディー記念日」(गांधी जयंती、ガーンディー・ジャヤンティー)という国民の休日となっており、2007年6月の国連総会では、この日を国際非暴力デーという国際デーとすることが決議された。

南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮した。民衆暴動やゲリラ戦の形をとるものではなく、「非暴力、不服従」を提唱した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました